みたことのない男の子だ。
ギィ、とギャラリーの扉がひらき、顔を上げたわたしの目に、まっすぐ、その子の中性的な横顔が飛びこんできた。姿のいい、物おじしない様子で、四方に絵が飾られた空間を、彼は見わたす。失礼にならない程度のごくわずかの間、歓迎の意味をこめて、わたしは彼にむかって微笑んだ。空中にむかってなげるような薄い笑みだったが、瞬間、デスクに座るわたしの顔をじっとみつめ、彼も丁寧な笑みをかえしてくれた。ガラス張りの窓から入る光が、口元に優しい影をつくる。男の子にしては長い髪が、頬の横、ゆれる。その様子に目をふせながら、そっと心がざわついた。

平日のギャラリーは、とても退屈だ。街の中心に立つ、都営の大きな美術館なら平日でも、身なりの上品な婦人や、静かに、と言いくるめられて目をキョロキョロさせる校外学習のこどもたち、またはスケッチブックをもった、身軽な美術学生でにぎわうのだろうけれど、わたしが籍をおく、この個人経営のギャラリーは、喧噪からは離れた裏街道に、ぽつんとある。選りすぐりのアートが、壁にはかけられているけれど、買い売りはすべて、購入をのぞむ顧客に雇われたバイヤーと水面下で行われていて、一見のお客の手にわたることは少ない。たまに、ふらりとやってきて花を一輪でも買うように、溜息のでる値段の物を買いあげてゆく人もいるが、そういうのは稀だ。買い手がきまった絵のタイトルは、そっと裏返される。「いってらっしゃい」と祈りをこめて、わたしは紙を裏返す。よいアーティストの絵なら、初日にすべて売り切れることもある。雨の日に、タイトルのない作品たちにかこまれ、雨粒がガラス窓をたたく音を聴いていると、この世界でたったひとりになったような錯覚をおぼえる。悪くはない。心地のいい、孤独感だ。

そうだ、わすれていた。ヌードがモチーフになった作品をおく時だけ、若干.........客がふえる。それぞれの思惑があると思うのだけれど、中には、ふるえる手で扉をたたき、恥じらいながら裸婦像をみつめるおじいさまもいたりして、かわいいことだと思う。いつの時代も、ちっちゃな下心が人を生かす。


一枚の絵の前で、男の子はたちどまっている。良い趣味をしている。美大生だろうか?かざって早々、まっさきに売れた絵だ。四足歩行の動物が鮮やかに、躍動感たっぷりに描かれている。視線が、キャンバス内の豊かな色彩をなぞり、そのまま降下し、裏返されたタイトルで、彼はわずかに形よく眉根をよせた。わたしはデスクから離れ、薄い紙片を手にもち、彼にちかづいた。

「もし、その絵を気に入られたのでしたら、描かれたアーティストの方の名刺をお渡ししましょうか?」

ぶしつけかとも思ったが、あまりにも彼が真剣に見入っていたものだから、わたしは声をかけた。彼はわたしに向きなおり、ゆっくり、あのあたりの柔らかい眼差しをむけた。また、心が、かすかに、さわぐ。年のわからない子だった。少年のようでいて、とても大人びた雰囲気を纏っている。つーと彼の目線がわたしの顔から首にかけて移行し、そのまま、ブラウスの胸元の上で、ぴたりと止まった。


.......、さん?」

「え、はい」


突然、名前をよばれて、わたしは戸惑う。そうして、胸にかざられた名札の存在を思いだす。そうだ、つけていたのだ。戸惑ったわたしをみて、彼はわずかに口角をあげた。 笑った?

「この絵には、まだ名前がついていないんですか?」

彼が問う。
わたしは気をとりなおし、答える。

「いえ、こちらはもう既に買い手が決まりましたので、あえて名前をふせさせて頂いているんです」

「ああ、そうなんですか」

「もし誤解させてしまったのならもうしわけ.............」

「いえ、いいんですよ」

ふーん、と言いたげに彼は頷いた。
さほど残念そうでもなかった。

「そうだ、もし、お知りになりたいのでしたら」


わたしはふせられたタイトルを、元に戻そうとした。せっかく気に入ってもらったのに、作品の名前を知らないままでは、ざんねんすぎる。紙をめくろうとした瞬間、素早く歩みよって、そっ、と彼がそれを押しとどめた。一瞬、彼の指先がわたしの手にふれ、その感触にわたしはびっくりする。想像していたような絵筆をもつ指ではなかった。もっと強い、ざらついたー

「このままにしておきましょう」

彼が言う。
わたしは彼をみつめる。

「この絵がどんな名前なのか、考えてみますよ」

その方が楽しそうだ、と彼は笑った。
とどめていた指が、離れた。

そのまま彼は、またぐるりとギャラリー内を見わたし、興味をしめした作品を見てゆく。手持ち無沙汰になったわたしは、傾いた額縁をなおしたり、インテリアの生花の葉をととのえたりし、その合間に、ときどき彼の背中に注意をむけた。不思議な子だとおもう、つかめない。少なくとも、線の細い外見とは、縁遠いことを日常でしているようだった。先程、押しとどめられた際、わずかに袖からのぞいた黒く、ずっしりと重そうなリストバンドが、さらにそれを印象づけた。ギャラリー内には、わたしたち以外に人はなく、午後の眩しい光が、ガラス窓から入り、きらきらと空気中に泳いでいた。わたしの眼前で、すべてがゆっくりと流れ、満ち、柔らかい黄金色に染められてゆく。この小さなギャラリーの世界の中心に、彼が立っている。わたしは目を細める。今、みているこの光景こそが、日常から切り取られた、一枚の絵のようだった。素直に、心にうかんだことをわたしは聞いてみた。


「絵が、お好きなんですか?」


光に包まれた彼が、ふりむく。


「ええ、好きです」

嬉しげに答えてくれた。


「当ギャラリーは初めてでしょうか?」

「実は、そうじゃないんです」

「以前にも訪ねて下さったことが.............?」

「ときどき前を通りがかった時に、窓越しに覗いていたんです」

「まあ」

「入ったのは、今日が初めてですが」

「そうなんですか」

「やっぱり、近くで見る方がいいや」


悪戯ぽく、わたしに笑いかけ、彼は言った。
よっぽど絵が好きなのだろう、とわたしは思った。


「ご自分でも描かれたりするんですか?」


気になっていたことを、わたしは思い切って聞いてみた。絵にたいする真摯な姿勢が、うれしかった。わたしは彼に、親しみを感じ始めている。少し照れながら、彼は言う。


「ええ、趣味で描きます」

「やっぱり」

「ルノワールのような淡い色彩が好きですね」

「ルノワールはいいですよね、わたしも好きです」


わたしは予想があたったことに、うれしくなり「描かれそうだな、と思っていました」と、つい、最初に感じた印象をうちあけた。素直に言ってしまってから、わたしは後悔する。彼が眉間に皺をよせたからだ。


「描かれそうだな........て、どうしてそう思ったんですか?」

「え?...と、それは」

「僕は、そんな風にみえますか?」

「いえ、ただ.............」

「ただ?」

「あの、お客さまはなんとなく、その、育ちがよさそうで」

「.............よさそうで?」

「絵筆をもつ仕草が、似合いそうでしたから」

「................................」

沈黙がおちた、彼はわたしをみつめたまま、黙っている。わたしはさらに後悔する。しまった。親しみを感じたからといって、知らない初めてのお客さまに、彼に対する個人的な印象をいうべきではなかった。踏み入りすぎた。うっすらと、頬があつくなるのが、わかる。どうしよう、謝らなくては、わたしは顔をあげて、謝罪の言葉を口にしようとした。「ごめんなさ.............」

次の瞬間ー
信じられないことがおきた。

「ぷっ」と、彼が吹き出した。


「はははは」

「え.............?」

「はは、やっぱりいいなあ、思った通りだ」

「あの、お客さま.............?」


彼が、わたしをみつめる、愛おしそうに。


さんて、可愛い」


一気に、頬があつくなるのがわかる。彼はまだ楽しげにわたしを見ている、どうしようもなく、わたしは発するべき言葉がみつからずに、困り果てる。ひとしきりそんなわたしの反応を楽しんだあと、彼はごほん、とあらためて姿勢を正した。わたしよりも少し高い背、見あげれば、やさしく、真剣な目つきで見下ろされた。

「初めまして、僕は............いや、俺は幸村精市と言います」

「絵が好きで、ときどき自分でも描きます」

「テニスを長くやっています」

「そして.............」

「先ほど、あなたに嘘をつきました」

そこで、つかの間、彼は口をつぐんだ。
そして、まっすぐわたしの目をみて、言った。

「通りがかる度に覗いていたのは本当です、でも絵の為じゃない」

「素敵だなと、ずっと思っていました」

ふわりと、やわらかく彼が微笑んだ。


「あなたが」


今度こそ、言葉もなく、わたしは本当に困り果てる。この幸村精市という男の子の好意が、どうにも、くすぐったくて、甘い。そうして、雨のように、やんわりと心の内に降りかかるその甘さが、イヤではないことが、わたしを落ち着かなくさせる。すぐ目の前で、彼が身に纏うシャツが、清潔な光沢をはなっている、まだ育ちきらない首筋が近づき、わたしの頬にあわい影をつくる。


さんは、カフェの飲み物では何が一番好き?」

唐突にきかれて、わたしは戸惑う。

「教えて」

「えっと.............ミルクティー」

「温かいやつ?」

「うん..........あ、いえ、はい」

「敬語はいいよ」


やさしく、彼が笑う。


「俺、今から向かいにあるカフェに行くんだけど、一緒にテイクアウトしてくるね」


ポケットに手をつっこんで、彼は軽く身をひるがえした。


「え、いいよ、そんな」

「気にしないで。.............その間にさ、考えててよ」


するり、と指で頬に触れられた。


「返事」


そのまま、彼は扉の外へ出た。
ガラス張りの窓から、一回手をふって。


扉が金属音と共に閉まり、あたりに静けさがもどる、ギャラリー内はまたわたしだけになった。デスクにもどり、椅子にすわる。深呼吸して、そっと胸にふれれば、名札の上から、心臓がどきどきしているのがわかる。邂逅が、波のようにおとずれる。幸村、精市くん、絵が好きで、テニスをやっている幸村精市くん。窓をみれば、向こう側の通りにあるカフェの店内で、おいしいコーヒーを求めようと、数人、ならんでいる人たちがみえる、あの中に幸村くんもいる。あの声で、ミルクティーをたのむんだ、わたしのために。そう思うと、また胸が高鳴った。

時刻は、黄昏に差しせまっている。今ではまったく色彩を変えてしまったギャラリーの絵たちに、わたしは救いをもとめる。黄金色の午後の光は消えてしまったけれど、それよりもずっと濃い、甘やかな気配が、そこかしこに漂っている、そうして、どれだけ願っても、どの素晴らしい絵も物言わぬまま、わかっているくせに、と勝手な視線だけをおくってくる。恋に落ちない理由が、どこにも見つからなくて、ほぅ、とわたしは溜息をついた。









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